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第 67 話

母のリセット

[今回の書き手]石橋彰史さん
2018.05.01

当時、私は阪神タイガースのカケフ選手と、寅さんに憧れる小学3年生。
あるとき祖父と
衝突したらしい母は、私と妹をつれて出かけたスーパーでこんなことを言った。

「もうすぐ家を出る。お金を節約するから買い物はひかえめにしよう」

母はトイレットペーパー4個入1袋をカゴに入れ、さっさとレジに向かう。トイレットペー
パー1袋。ただごとではない。お菓子めあてについてきた私は異様な興奮に襲われた。引
越し、転校、新生活。私の目の前には別れを惜しむクラスメートの顔、顔、顔。涙目の彼
らに私は言うのだ。今まで楽しかったです、向こうへ行ってもみんなのこと忘れません。
このとき私の脳みそは新生活の甘い誘惑に満たされ、楽しかったことの半分以上は忘れか
けていた。
何も知らない妹は母に手をひかれチョコほしいとか言ってる。彼女はまだ小さ
すぎて事の重大さに気づいていない。要するにサルだ。母はハハザルだ。そうだ、これか
らは僕が二人を守らなければいけない。私はそれまで感じたことのない使命感に震え、カ
ゴの中のトイレットペーパーを神妙に見つめた。そんな私に気づいた母は、ちょっと困っ
た顔をした。そしてなぜか、

「もう1つ買おうか」

売り場に引き返しトイレットペーパーをもう1袋つかむ。

そうか、そういうことか。いくらなんでも便所紙一つじゃレジの人に、ここんち何かあっ
たと勘ぐられる。ここはトイレットペーパーをもう1袋買うべきなのだ。わかる、わかる
よ母さん。異変を悟られないよう、僕その芝居うまくやってのけるよ。意気に感じた私は

「うん、もう1つ買おう!」

と口笛吹かんばかりに喜んで、円満な家族の午後の買い物に花を添えた。可哀想なサルは
あいかわらず母にしがみつきチョコ食べたいと言っている。だけど心配しないで母さん、
僕がついてる。レジ横で私は得意げに母の顔をのぞいた。

すると母は、ますます困った顔になった。



その後、私たち家族はそんなこと忘れるほど長い間そこで暮らした。母は翌日から、もと
通りの母だった。決意だけの家出にリセット効果があったのだろうか。10年後、彼女は他
界し永遠のリセットを果たす。



私はというと、あれからしばらく転校の挨拶を考えていたが、やがてアホヅラで校庭を駆
け回りそのまま沖縄にたどり着いた。野球をしてもカケフにはなれなかったし、旅をして
も寅さんになれるわけではなかったけれど、沖縄に住んで間もなく訪ねて来た友人は、人
間がまるくなったと感心した。今なら母に、沖縄でも来てみたら?とそれとなく言えたの
かもしれない。サルよ、きみはもう立派なハハザルだが、たまに家族で遊びに来いよ。ま
るくなるってさ。

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石橋彰史さん
石橋彰史Ishibashi Akifumi

秋田県生まれ。
10年ほど過ごした仙台にて「寅さんになりたい」と宣言し
北から南を放浪の末、
沖縄にとどまって17年。広告のコピーやCMプランを
やったりやらなかったり。

次回の書き手は
しろませいゆうさん

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