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第 30 話

チキンと家族。

[今回の書き手]幸喜ブエコ朝子さん
2015.02.01

幼いころ、塩をなめていた。
塩をなめ、空腹を満たしていた。

両親は私が生まれたのと同じ年に自営業を始めた。
チキンの丸焼き専門店という
当時まだ珍しい業種だったこともあり
もちろん最初から上手くいくはずはなく
父コウエイと母サチコは朝から晩まで働き詰め。
お店と同い年の私は自動的に
おばあちゃんや友人の家に預けられて育った。

自営業の帰りは遅く
父コウエイと母サチコが帰ってくるのは私が寝る時間。
そのため幼い頃の夕ご飯の記憶といえば
お父さんお母さんと囲んだ食卓ではなく友だちの家族
母の味ではなくおばあちゃんの味だ。

自営業の難儀は長く続き
小学校にあがるころも
父コウエイと母サチコは朝から晩まで働き詰め。
一人っ子の私は自動的にカギっ子となり
学校を終えて帰るのは
夕ご飯のチャンプルーの匂いがしたり
お母さんがおやつのサーターアンダギーを
揚げてくれたりする家庭ではなく
お父さんもお母さんも、誰もいない家。
時にはヤンキーの先輩が勝手に上がり込んで
漫画を読んでいたりしたものの
人気のないシンとした空間が私の帰る場所。
お腹がすいた小学生の私は
誰もいない家の小さなキッチンで
自ら料理をつくる智恵もなく、
ただただ塩をなめ、空腹を満たしていた。

そうして手塩にかけられ...ではなく
手塩をなめて育った私だが
両親の愛情のおかげかすくすく育ち大人になり
手塩をかけて育てられたお店も
常連の方から観光客まで来てくれるほどに成長した。
その味に惚れ込んでいる私もついつい30歳に脱サラ
「ブエノチキン浦添」二代目の道へと進んだ。

そうして両親と働きはじめて3年半。
日々感じるのは家族そろって食べものを囲む幸せだ。

朝出勤したら一緒に珈琲を飲み
お昼には一緒にご飯を食べ
あいた時間におやつを食べる。
父コウエイと母サチコが働き詰めだったため
あまり記憶にないそんな時間を
30歳を過ぎた今、新鮮な気分で経験している。
テレビのワイドショーにああだこうだ言ったり
母サチコの飲み会での失態ぶりを笑い話にしたり
父コウエイからお店の苦労話を聞いたり。
それは家庭の光景としてとてもありふれた
だからこそ愛おしく、かけがえがない時間だ。

自営業者が多く一人っ子やカギッ子の多い沖縄。
昔のようにオジーもオバーも何世代にもわたって
わいわいと囲む食卓は減り、
子どもが一人でご飯を食べる孤食も問題になっている。
そんな今だからこそ
私たち家族が作るチキンの丸焼きは
家族でチキンを囲む楽しさや賑やかさも
一緒にお届けできるのではないかと考える。

手塩をなめて育った私だが、
二代目としてチキンと、いや、キチンと
丸焼きを囲む豊かな食生活、食時間
食体験を提供できるお店を手塩をかけて育てたい。
そんなことを父コウエイと母サチコと共に
もぐもぐおやつと幸せを噛みしめながら日々考えている。

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忙しく仕事をするなかでも、たくさんの愛情を注いでくれた両親

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働く母サチコの背中

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お店に遊びにくる子どもたち

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ブエノチキンのパーティーで家族そろっての一枚

幸喜ブエコ朝子さん
幸喜ブエコ朝子Asako Bueko Kouki

1982年那覇市生まれ。同じ歳に両親がチキンの丸焼き専門店「ブエノチキン浦添」を始める。立教大学卒業、広告コピーライターとして8年務めた後、30歳にブエノチキン浦添の二代目の道へ。
チキンの丸焼きを沖縄のソウルフードにすべく日々チキンと活動中。
http://bueno.ti-da.net

次回の書き手は
浅野太輝さん

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