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第 16 話

ガハハと、生命力

[今回の書き手]関根麻子さん
2013.12.01

初めて沖縄の地を訪れたのは、石垣、竹富の一人旅だった。
湿った波音、分厚い葉やきびが風に擦り混ざる音。
自分を囲む音が、体内の音と交わり新しい音を作っていった。
音として身体にすぅっと馴染み、染み込んでゆく。
今でもその感覚は鮮明に残っている。

そう、この旅で深く記憶に刻まれていることがある。
石垣の街にほど近い防波堤で夕陽をぼーっと眺めていると、
やんちゃそうな中学生の男の子達がやってきた。
眉毛はきっちり山の形に整え、、いわゆる腰パン姿にスケボーを抱えている。
ポラロイドカメラを首からぶら下げていた私を見て「ねーねー、何してる?」。
その姿からは想像もできないほどピュアであどけない笑顔。
つられて「海見てる、写真も撮ってるよ」と私もにっこり。
一気に囲まれ、おしゃべり。
ポラロイドを初めて見るという彼らのスケボー姿を次々に写してゆく。
その写真を皆で見比べ、恥ずかしそうに突き合ってガハハと笑いあう。
活き活きキラキラ。あー青春!たまらん風景だなと、私の涙腺はゆるんだ。
記念にその写真を一人ずつ渡して帰ろうとすると
「ねーねー何であんたは写らん、ねーねーの旅さ」と一枚写真を撮ってもらった。
今でも宝物のその写真。そう、彼らのガハハという笑い声も宝物の記憶。

その旅から2年後くらいに私は大里村に移住してきた。沖縄サミットの前。
場所はきび畑と牛舎と少しの住宅しかない集落。当時は県外からの移住者はゼロの集落。
歩いていると必ず「あんた、どっから来たね~?」といろんな人に声をかけられていた。
そうそう、
そこから数年大里を離れるまでは野菜を自分で買ったことは数えるくらいしかない。
周りに畑をやってる人が多かったせいかもしれない。
お隣さんや 区の書記長さん、勤めていた浜辺の茶屋のおじいからの美味しい贈り物。
毎日のように土がいっぱいついた
小松菜、インスヌバー、サクナ、チシャ、島大根、シ ブイと、
ものすごい量の沖縄の命をいただいていた。
「こんなに食べきれないよ~」と言うと、陽に灼けたガハハ笑顔でそれを渡された。
美しい笑顔だな、と見惚れたのを思い出す。
たくさんのいただきものは佃煮にしたり、パンに混ぜて焼いたり、スープにしたりと、
いろいろな知恵をしぼって無駄にしないようにとこしらえ続け、
それを近所に仕事先にといそいそ持っていっては食べてもらっていた。
今振り返るとお金は決してなかったけど、
知恵と工夫と人との交わりが暮らしに根付いた、
とても 豊かであたたかな循環だったと感じている。
そしてその暮らしが今の私の原風景となっている。
私の料理の出発地点とも言えるだろう。

こうした記憶の感覚をたどりながら、いま思う。
沖縄に来る原動力となったのは、ここにある生命力の輝きだったと。
分厚い葉っぱ、味の濃い島野菜、そして何よりそこに暮らす皆のガハハという笑顔。
東京にいる時は何かひとつ人より秀でたものを持っていないといけない、
そんな勝手な妄想に取り憑かれていた。
しかしここでは生きることそのものを輝やかしている達人がいっぱいいる。
たくましく美しい生命力。
ガハハと大きな笑顔で「生きる」ということを謳歌し楽しむ人たち。

そうだそうだ、今をめいっぱい楽しもう。いっぱいガハハと笑おう。
謳歌した瞬きの積み重ねは、必ず未来につながっていくはず!!

そして、沖縄の土地と周りの人達に感謝を持って。

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麻子さんの食材に対する感謝と愛情のこもった下ごしらえ

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気持ちが伝わる麻子さんのお料理

関根麻子さん
関根麻子Asako Sekine

1970年 東京の田舎町生まれ。2000年沖縄県に移住。
カフェを営みながら料理を担当し、ギャラリー勤務を経て、2014年春からまた料理の店「胃袋」を玉城にオープンするべく準備中。
楽しい毎日を謳歌中。

次回の書き手は
仲村大輔さん

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