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第 11 話

私はジーンズの縫い子

[今回の書き手]國吉遊さん
2013.07.01

自分の職業を訊かれた時、私はこう答えます。
ジーンズ1本仕上げるには最低でも8台(8種類)のミシンが必要で
私はその8台のミシンを用いて毎日ジーンズを縫っています。

「岡山県倉敷市児島」
この地名を見てピンとくる方も今では多くなってきたと思います。
岡山県の南に位置し瀬戸内海に面したこの小さな町は
ジーンズの生産本数が日本一の町で
ジーンズマニアの間では「ジーンズの聖地」とも呼ばれています。
町全体で繊維に係わっている人が多くいます。
(あのボクシング世界チャンピオン、
辰吉丈一郎の お父さんもアイロン業を営んでいて生計を立てていた。)

私はその児島で1997年9月~2007年8月のちょうど10年間
ジーンズのことを勉強させてもらい
2008年4月から沖縄で工房を開き、今に至ります。

10年間の修業中、毎日大好きなジーンズに触れる喜びを味わい
充実した日々を過ごしていましたが
時間を重ねジーンズを縫う技術が備わってくるのと比例して
仕事内容を単調に感じたり
何度もここを辞めて沖縄に帰り、別の仕事に就こうと考えたりもしていました。
ジーンズ業界は一見華やかに見えて、縫製の工場などは慢性的な人手不足。
自分の働いていた工場でも、同じ世代の若い人が入っても
皆途中で辞めて最後若手はいつも自分ひとりになっていきました。

若い人はみな辞めていく中で
自分はなかなか「自分も辞めます」と言えなかったのです。
友達の紹介で会社に入れてもらった手前
「友達の顔を潰せない」「沖縄の人間は根性ない」
そう言われるのが悔しくて必死に食らいついていました。
だけど本当は、仕事を辞める勇気がなかったのかも知れません・・・。

そんな、どこか浮ついた気持ちで仕事をしていたとき、大きなミスを犯しました。
アパレルから指定された運針(ステッチの長さ)を間違えてしまったのです。
仕様書とは 異なるステッチの大きさで縫ってしまい
しかも、パンツが完成してからアパレル側から指摘されたので
修正するのは不可能でした。
大目玉を食らいましたが
自分としては逆に「そっちの方が良いのに・・・」と思っていました。
ミスした自分に対しての言い訳とか、ふてくされた感情では全くありませんでした。
むしろ「なんでみんな分からないの?こっちがカッコイイよ」と思っていたのです。
機械的なステッチの配列より、縫う箇所によって運針を変える方が
平面的な生地がジーンズになった時、立体的に見えることを
アパレルの企画を立てている側はあまり認識していなかったのです。

縫製の重要さを知った時、自分の役割に誇りを感じました。
「ステッチ1つでパンツの表情は劇的に変わる」
そのことを確信してから、仕事に対しての取り組み方や考え方が前向きに変化しました。
仕事が終わり毎日ミシンに向かい
1センチの長さのステッチを9ミリに、また8ミリに設定してみました。
ミシンを踏む時に生地を引っ張って縫う、生地を押して縫う。
さらにステッチの目調子をきつく・ゆるく
ステッチの幅を細く、太くすることによって
パンツの面構えは面白いように変わりました。
ジーンズのステッチに躍動感が出たり、逆に安っぽくみえたり・・・。
ジーンズの縫い方、ステッチに自分の想いが投影できる喜びを見出せるようになると
単純作業の辛さが楽しさへと変わっていった気がします。

今、現在もその作業は継続中です。
「これからも新たな発見がある」そんなことに心躍らせながらミシンを踏み
そしていつの日か自分にとって「究極の1本」に辿り着きたい・・・。

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國吉さんがつくるジーンズ。
こだわりのステッチ、こだわりのパーツで、オリジナリティあふれる特別な1本に。

國吉遊さん
國吉遊Yu Kuniyoshi

1972年生まれ。
25歳~35歳キャピタルにてデニムを教わり、2007年帰沖。
2008年沖縄市にてダブルボランチを開業。

次回の書き手は
山城豊さん

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