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第 58 話

国際通りを通っていこう

[今回の書き手]宮里綾羽さん
2017.08.01

「国際通りを通っていこう」
 これが、父の口癖だった。

久茂地川沿いや開南を通ったほうが首里の家へは早く帰れるけれど、
渋滞する国際通りを車でゆっくり走りながら街並を見るのが好きだったから。
後部座席の窓から夜の国際通りを眺めると子供心にワクワクした。
雨の日は街が一層キラキラして見えて食い入るように外を眺めた。
いつからだろう。
父が「国際通りを通っていこう」と言わなくなったのは。

夕暮れ、国際通りを歩く大人たちの隙間をスイスイと抜けていく。
片手に食べかけの駄菓子を持ち、ぞうりをペタペタさせて従姉妹たちの後ろを
一生懸命追いかけた。
首里に引っ越す前、わたしたち家族はダイナハことダイエー那覇店(現在はジュンク堂)の
裏手にある大きなマンションに住んでいた。
母は三人姉妹の三女。
マンションは三姉妹の長女である伯母夫婦が経営していて、
三姉妹の家族と祖母が住んでいた。
住む階層は違うが、従姉妹たちとマンション中を走り回り、
お互いの家を自由に行き来した。
従姉妹たちはみんな十歳近く年上だったが、四歳のわたしを仲間として扱ってくれた。
那覇の街で従姉妹たちと過ごした日々は、今振り返っても瑞々しくて愉快だ。
 
週末はみんなでよく外食をした。
とんかつならば「サボテン」、出前なら「無邪気食堂」、中華は「東洋軒」、
和食は「梅園」。ぜんざいなら「かどや」か「富士冷菓」。
うなぎの店の名前が思い出せない。
洋食ならば、ダイナハの最上階にあった「ピザハウス」で、
ハンバーガーなら「ドムドム」。この二店は子供だけでもよく行った。

子供だけで「ピザハウス」へ行くと、ベルベッドのロングスカートを履いたマダムが
「また来たのねー」と声を掛けてくれて、
わたしたちは常連みたいに(実際、常連だったわけです)決まったメニューを注文する。
会計はいつも一番年上のゆーこ姉ちゃんが済ませた。
ムーディーな雰囲気を演出するために照明を暗くして、
壁一面にスイスかどこかの湖の絵を飾った店。
そんな店で半ズボンの小学生が馴れた手付きで会計する姿を思い浮かべると
可笑しくて笑ってしまう。

ダイナハを出ると、必ず駄菓子を買ってマンションに戻った。
駄菓子は「新垣商店」か「山城商店」。
「新垣商店」はウィンナーのてんぷらとジューシーが人気で、よく売り切れていた。
「山城商店」へは祖母と二人で手をつないで行くことが多かった。
祖母に頼めば、家で禁止されていた乾燥梅ぼしを買ってもらえたから。

たまには国際通りまで足を延ばす。
マキシーの中を散策して、三越の横の道を抜け、
「沖縄ジァン・ジァン」の前を早足で歩き、また沖映通りに戻る。
フェスティバルには行かなかった。
あの打ちっぱなしのモダンな建物は子供を寄せ付けない空気を纏っている気がして。
国映館ではみんなで「スターウォーズ」を観て、
山形屋の地下では大きなお菓子の回転台に興奮した。

毎日が冒険で輝いていた。
子供たちには居場所がたくさんあって、隠れる場所も多かった。
大人の街の裏側に子供だけの街が存在するように。

従姉妹たちと離れて暮らし始めた首里は夜が長くて、
緑がうっそうと繁りなんだか怖かった。
そして、いつも退屈。
従姉妹たちと過ごした那覇の街とあのマンションが恋しかった。
だから、出先から帰るときに父が「国際通りを通っていこう」と言うのが嬉しかった。
車の中から街で暮らす子供を探し、旅行者の間をすり抜けていく彼らを羨ましく思った。
家から一歩出たら煌めく街に放たれていくような、あの日々が懐かしい。

でも、いつからか彼らを探さなくなった。
父が「国際通りを通っていこう」と言わなくなったからなのか、
首里がホームタウンになったからなのか。


いや、子供だけの街がなくなったからかもしれない。
それとも、わたしがもう子供ではなくなったからなのかも。

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宮里綾羽さん
宮里綾羽Miyazato Ayaha

沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。

「池澤夏樹の公式サイト cafe impala」にて【宮里小書店便り】を連載中。
http://www.impala.jp

次回の書き手は
伊東高志さん

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